感染症は学校に何をもたらすか

新型コロナウィルスのせいで学校が長期にわたって休校中です。これは、生徒にとっても学校にとっても最悪の事態であることは間違いありません。休校にしているのは、登校することによって、人から感染しないため、自分が知らないうちに感染していた場合に人を感染させないためです。登下校中の危険、登校してからの危険、たとえば、友達との密な接触、授業中の教室内の密閉空間、校舎の出入り口や活動場所での密集など、授業や部活動や学校行事のどこでも三密の危険があります。生徒と教職員だけでなく学校に係わる人たちすべてを守るために学校は閉鎖せざるを得なくなりました。
学校はそもそも学ぶところです。生徒が学ぶために学校はあるのです。学ぶ生徒のいない学校は魂が抜けた人形のようです。この事態になって改めて学ぶとは何かを考えさせられました。
当然ですが、休校になって授業がなくなりました。でも、授業がないことで学びがなくなったかというとそうではありません。授業がなくとも教科書はあります、参考書や問題集、あるいは先生が作成したプリントなどの教材があります。学ぶ材料はあります。
先生が目の前にいません。黒板の前で講義する先生がいません。自分でやらなくてはならないことがたくさん出てきます。
一緒に学ぶ友達がいません。友達がいれば刺激を受けます。学ぶ意欲も自分でかきたてなくてはなりません。これが一番つらいかもしれません。
でもそれらがないと学びがないのかといえば、そうではありません。学ぶという行為は読書に似て、所詮は一人でするものです。誰に教えられようと、誰と一緒に学ぼうと最後には自分でするものです。結局、学ぼうとする自分さえいれば、どこででも学ぶことはできます。
本校では今、学校に来ることができなくなっている生徒たちに、インターネットで課題を配信し、オンラインで授業を行い、互いの顔を見ながら相談に乗ったりしています。これまで整備してきたICT教育環境によって、いつもの学習環境に近い学習環境を提供できるからです。ですから、完全に目の前から先生がいなくなったり、友達が消えてしまったわけではありません。それでもやはり一人は一人です。この環境では、自分が主役であることが一層はっきりしてきます。これまで教室での自分は大勢いる生徒のひとりとして半分埋もれていました。自分が考えなくてもクラスメイトが考えてくれれば、自分が考えたように思うことができました。しかし、家ではそうはいきません。先生や友達とオンラインでつながっているにしても、自分で考えることをしないと直ぐわからなくなってしまう。画像を追いかけているだけでは、学んでいることにならないのがわかります。それとは逆に、今まで周りのペースに合わすのが苦手だった人にとっては、自分が主役になれます。授業がオンラインになって、かえって授業に積極的に参加し、課題も提出するようになる人がいます。
休校になって授業がなくなっても学びがなくなったわけではないという話をしました。
次は、その学びについて話をしましょう。